初めてボランティア活動に参加して

1998/9/28(月)

ボランティアとは無縁の私が9月28日(月)の新聞の朝刊を見て今からでも遅くない、何か出来ることがあるとはず!!阪神での震災時、後になってボランティアに参加してたら、、、と悔やんだ自分に今日こそ何かしよう!そして何か感じよう!そんな気持ちで行動した。どうしたら良いのか、何処へ行けばいいのか、解らないまま車に衣類、薬品、ロープ、メガフォン、食料などを載せて、初めに向かった場所は五台山。新聞にもボランティアの助けを求めているとあったので行ってみると山の斜面に崩れた跡がある。その下の家に向かい、おばちゃんに「何か手伝うことありませんか」と声を掛けると「大津へいき!あっちはもっと凄いき」その言葉にすぐさま大津へ7時30分大津小学校へ到着。周辺は被災した家財などが歩道に積まれ、鼻を刺すような異臭があたりに漂っている。こりゃあすごい!大津小学校は誰もいなく、隣の支所に向かうと何人かの役所の方が疲れた表情でいた。ボランティアをしたいと申し出るが疲労のためか対応がスムーズに行かない。到着した支援物資と思われる荷物を降ろした後、8時過ぎに高知東部健康福祉センターで、ボランティアが必要であることが分かり直ぐさま向かう。

高知東部健康福祉センターに着くと何人かのボランティアがいて、一緒にお弁当やお茶などの食事を公民館などに配送することとなる。ボランティアの猪股さんは2台のトラックと仕事仲間で来ている。私は助手席に乗り食事を配送。支援している食事は、お弁当、おにぎり、カップヌードルといった内容で、けっして良いものではない。この日も一度に1000食を超えるお弁当類を配送している。センターに届けられた温かいお弁当も、被災者の待つ避難場所に着く頃には冷たくなり、とても悲しかった。ある避難所ではお婆ちゃんひとりで待っててくれ「どうもどうもありがとう」と喜んでもらい、とても嬉しかった。またある公民館ではお弁当の奪い合いとなったところもあった。衣類などの支援物資にサイズが合わないからと文句を言われたり、十分あるはずのお弁当をひとりで幾つも持ち帰り、後から来た人にはおにぎり1個なんてこともあった。感謝されるためにボランティアをしている訳ではないが、私を役所の人と思い込み「冷えた弁当はもうえいき、ほか弁こうて来い」と言った人もいた。何なんだろう!30分も歩けばコンビニもスーパーもレストランも営業してるのに、、、これからのお金がかかる事も解るが私には身勝手としか思えなかった。全てがこんな調子ではない。ある地区では段取り慣れたおばちゃんが指揮っていて実に頼もしかった。地区全体の事を考えた発言に、「これが普通なのにねえ」とボランティアの相棒と顔を見合う!!それにしても配送中、目に入るもの全てが悲しく空しく感じる。初めてのボランティアはこうして終わった。

1998/9/29(火)

翌日からはボランティアの数も増え、センターでの作業はスムーズになった。偶然にも10数年前の友達に逢う!こんな所で逢うとはねえ、、、と。。。センター内では支援物資も集まり衣類の仕分けなどの作業も増える。受付には消毒液を取りに来た被災者が市の職員に文句を言う場面もあったが、そんな事より今することをと思ったのはセンターに居た全員ではないだろうか!今日までここに詰めている市の職員を私は防災課か消防の方と思っていた。何となくそんな雰囲気の方々で、生活福祉課と聞いた時は驚いた!!この日も食事を中心に支援が行われ、クタクタになり帰宅。

1998/9/30(水)

この日は朝から天気が悪く、お弁当などが届く裏口は軒もなく食事が濡れて大変と雨の中ずぶ濡れになりながらブルーシートで仮設のテントを設置!これで快適と思いきや風でシートが破れるは水は溜まるはで悲惨な状況に、、、天候は次第に悪くなっていく、高知市内の全ての小中学校が 避難場所として開くことが伝わると何とも言えない空気が漂った!そうした間にも物資は届き、天理教の方々、若い人も年輩の方も気持ち良く働いてる。

1998/10/2(金)

この日から私の活動の拠点は高知東部環境センター・体育館へ移り支援物資の整理が中心になる。体育館には市の職員が3〜4名、それとボランティアが5名で物資を管理している。放送設備も使えない、ファックスもコピーもない。続々と届けられる物資をこの人数で処理することはかなり無理がある。私は友人と2人で壁に仕分け表示の紙を貼ったり、段ボール箱を組み立てたりしながら到着する物資を待った。

1998/10/3(土)

この日は土曜日と言うこともあって多くのボランティアが駆け付け、作業が捗る!!昨日までの作業が信じられない早さで進んでいく。さすがおばちゃんパワー!この日と明日は大津小学校の体育館で支援物資のバザーが開かれる。その為、朝からこれまでのトラックのほか生協の方々のトラックも加わり物資を小学校へ搬送する。何処かの公民館の様にならないことを期待しつつ心配で気になる。夕方近くに看護学校の体育館へ行く、日赤の防災セットなどを高知東部環境センター・体育館へ移送する。ここは避難場所でもある、体育館の片隅に運動マットが敷かれ、その周りには生活日曜品が置いてあった。この日も避難生活は続いているようだ!!広い体育館の舞台上にはNHKから提供されたテレビがニュースを映し、託児所も設置されているせいか子供たちが元気にはしゃいでいる。500個近くある救援セットは運送屋さんにあるようなコンベア(手動)で移動でき小数で積み込みを完了した。

1998/10/4(日)

私のボランティア最終日!!この日も支援物資が体育館に届けられる。今治からワゴン車にタオルを満載にして来てくれたひと。洗濯機や家具を持ってきてくれた人。小さなものから大きなものまで沢山集まっている。今日で終わりかと思うと妙に寂しい!明日はどうしよう。このボランティアの記録を残そうか。

1998/10/7(水)

私の初めてのボランティアはこのように終わりましたが、今でもたくさんの人がボランティアを必要としています。現在、パソコンの前に何か別の形で出来ること。それがこのホームページと思い制作しています。今回の災害では、市の責任問題について放送や新聞などで議論をしていますが、末端で活躍された生活福祉課のみなさんは非常によくやってくれました。自分が被災者でありながら公務を続けた方もいたようです。センターに来て「市長が悪いき今度は投票せん」と言ったひと、美術館の建設場所がどうのこうの言って犯人探しをしている記者さん、何に優先して行動されているのでしょうか。様々な場面に遭遇し、たくさんの方々と出逢いました。そして今回のボランティアで多くの事を学びました。この経験を活かし自分の住む町の防災に役立てたいと思います。

みなさんありがとうございました。
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